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スリランカ通信(11)  リフレッシュ in キャンディ(1)「旅立ち」

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キャンディ市内

 その日は雨だった。
 旅立ちは雨の日が良い。そう言ったのは「二十歳の原点」の高野悦子である。なぜ雨の日なのだろう。ずうっと思ってきた。今も気になっている。浮世の憂さを流してくれるから?(憂さは晴らすものなのだが) 出発前の涙をごまかせるから? 雨具を忘れてしまうことがないから? いろんな意味をこめての「雨の日」なのかもしれない。

 人の心は不安定で、いつもぎりぎりの境界線を綱渡りしているのだと思った。一つ間違えると思ってもいない方へ引き込まれてしまう。彼の場合がそうだった。

 数日前のこと、その男から電話があった。
「傷心旅行につきあってくれないか。」

 いやな胸騒ぎがした。他人の失恋に向き合うほど、人ができてる俺ではないし、暇もない。だが、よく話を聞いてみると断るわけにはいかなかった。思いがけない、ふとした出来事から、これまで大事にしてきた恋心が一気にあらわになり、あっという間に失恋したらしい。そして、なんと、その失恋相手のアドバイスに従って、リフレッシュすることにしたというのだ。

「情けないと思わないか、お前。」
「情けないけど、みじめじゃないぞ。」
 口をとんがらして彼は答える。しかし、旅費は全部持ってくれるというではないか。ここで、友を見捨てては男の名がすたる。人間として最低だろう。付き合うことにした。相談に乗ることにした。「明日はわが身」ということもある。友の期待に応えずして、何のおのれが人生か。

 失恋者には古都がふさわしい。日本なら、京都~大原三千院、恋に疲れた女がひとり~だ。
 スリランカで失恋した男が向かう場所・・・キャンディ。

 キャンディは標高300メートルの盆地でコロンボよりも過ごしやすい気候らしい。シンハラ王朝最後の地で、300年以上のシンハラ文化が隆盛した街である。コロンボから3時間と地の利もいい。俺もまだ行ったことがないし……。失恋男に「お前にはキャンディが似合う。」と言うと、彼はそれだけで、はしゃぎまくった。悲しいほど単純な男なのだ。
 それにしても、失恋話って、本人には申し訳ないが、周りの心は癒されるんだなあ。

 コロンボから一路、キャンディ・ロードをひたすら走る。彼の運転は乱暴だった。こちらスリランカでは「俺を追い越すなよ」という意思表示として、右折するわけでもないのに右ウインカーを出すが、彼はずうっと出しっぱなしだった。無理やり前方の車を追い越したり、S字道路で前方が良く見えないのに、反対車線に出て追い越しをかけたり……。今はもう、雨が上がっているからまだいいようなものだが。一瞬、後悔した。(やはり、失恋男と旅なんぞするもんじゃない。)

 途中、レストラン「Ambepussa」で、休憩。キャンディまで後60キロという地点だ。ここで、サウジアラビア以来の知友、プラディープ君と再会。クルネーガラ行きに次いで2度目だ。オレンジジュースを頼むと新鮮な絞りたてを持ってきてくれた。おやつは彼推薦の「マサラ・ワデ」という豆で作ったお菓子。タミール人のものらしい。
「なあんだ。シンハラ人とタミール人、仲いいじゃん。」
 と言うと、憮然とした表情でプラディープ君は応える。
「シンハラ人とタミール人は昔から仲良く共存してきたんだ。今、争っているのは政府軍とLTTE。世界の人はみんな誤解してるんだ。」
 なるほど、返す言葉もない。しかし、失恋男が日本語でボソッとつぶやいた。
「確かにそうだけど、コロンボのタミール人はずいぶん差別されてるよ。」
 この国の歴史、民族移動と植民地の時代、これを正確に紐解かないとなかなか分からない問題だ。とにかく、ご馳走してもらった手前、反抗などしない。

 プラディープ君が他の客に気を取られ、テーブルを離れた後、
「男と女。やっぱり、女のほうがいい。ぼくは今度生まれ変わるとしたら、絶対、女になる。そして、ぼくのような男と出会ったら、決して振ったりしないで、優しく尽くしてあげるんだ。」
 失恋男は俺に話しかける風でもなく、ひとりごとのようにつぶやいている。どうも、重症のようだ。こんなに思いつめて、本当にリフレッシュできるんだろうか。
 まずは、煩悩を捨て去って解脱の道へ向かうこと。汚れきった心を浄化するのには仏陀に帰依するのが一番。とにかく仏歯寺へ行こう。俺は勝手に決めたのだった。
(この話はフィクションが少し入っています。あしからず。)
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マサラ・ワデ


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旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

なぜ雨の日が良いのか良く考えてみることにします。
「別れ話は夜するな。」と私は人にも言いますし、自分でもそう心がけています。夜の別れ話は、さみしくて、悲しくて、とても目的は達せられません。日中なら明るく握手して別れられそう。
青沼君の元気そうな様子をこのブログで知ることが出来て嬉しいです。もう少し女性の写真があるともっといいなあ、などと考えたりしていますよ。

投稿: おさむ | 2008年7月30日 (水) 12時57分

別れ話、したこともされたこともないなあ。
だいたいいつも知らないうちにいなくなっているんだよね。

女性の写真ね。
がんばってみましょう。

これからも、よろしく。
コメント書いてちょう~だい。

投稿: 青沼国夫 | 2008年7月30日 (水) 18時36分

別れ話・・・”女性”とのそれは殆んど記憶がない位に遠い過去のこと。

仕事上の付き合いでの”決別”はわりと最近にもあったが、近年会って話さなくてよい(例えばメール等)ことが多く、瞬間的な感慨が少ない分、後々じわじわと考えることが多い。

話を女性との事に戻すと、カッターで切ったような別れかたってしたことないように思う。

傷つきたくないし、傷つけたくない・・・みたいなある種卑怯な経験が多いなあ。

初めて、青ちゃんのこのサイト覗いたけど、
なかなかいいですね

また、顔出しますね。

投稿: クラナリ | 2008年7月31日 (木) 17時58分

やあ~、倉さん、書きこ、ありがとう。
「カッターで切ったような別れ方」
そういうのもあこがれるけどね。
劇画の世界かな。
傷つくの、いやだよね。
だから、逃げてしまう。

でも、人生はドラマだって、
開き直ったら、
それはそれで道があるのかも。
「傷だらけの人生」
好きでしょう!?!

投稿: 青沼国夫 | 2008年8月 1日 (金) 20時56分

「傷だらけの人生」・・・、鶴田浩二でしたね。
ある時期まで、ある意味憧れて、確かに好きだったかもしれない。
ごく最近では、「出来れば傷つきたくない、傷つけたくない・・・」という、温厚なおじさんに傾いているように自覚します。
それでいて、そのような心情を持つ自分に”限界”のようなものを感じてとても哀しい。
いや、寧ろつらい。
このような心情から、出来れば脱出したい。

いつの頃からこのような心情を持つようになったのだろうか。
時分の中では、かなり深刻なテーマであります。

このままでは、毎日ご飯食べてうんこするだけの存在になってしまう・・・。
それは、いかのもつらい!!

では、何をすればいいのか?
どうすればいいのか!!!

青ちゃん、最近のクラナリは、そんなことばかり考えて、
実は、悶々としています。

55歳のこの年まで生きてしまったし・・・
ホントに格好つける訳でもなく、真剣にそう感じて、実は深く思い込んでいる。

今までが、悪戯に”ポピュラリテイー”を大事にし過ぎた報いなのか。

実は、今のこの時節の生き方に思い悩んで犬のですが・・・。

気分と時間が許したら、何か書いてください。

投稿: クラナリ | 2008年8月22日 (金) 21時06分

前略 倉さん 
「傷つけたくないし、傷つきたくない」俺もそうだ。けど、俺はたぶん、自分でも気が付かないうちに人を傷つけているし、俺も人から傷つけられている。生きるって、傷つけあうことかもしれないな。人間ってどうしようもない生き物だ。
「かなしい、つらい」けど、そこから逃れられない。背負って生きていくしかないかなって気がする。
確かにポピュラリティを追いかけると、本当の自分とは何かって疑問が一緒にくっついてくる。アイデンティティの喪失なんてことにもなりかねない。でも自分をさらけ出すのも角が立つし。そういうことでもやもやしてくる。
やっぱ、邪心を捨ててもう一回考えてみるってことかな。今の俺が自分に言えることは。

考えること:生と死の境目はどこか、自分とはなにか、こころとからだはどう違うのか。
身近なことだけどよく考えつくされておらず、多くの人間が(自分自身も)誤解したまま
平然としている「もの」「こと」。
書物でもなく人の話でもなく、自分の頭で考えて深めるべきこと。
その上で、自分なりの見解を持つこと。
真理というものがあるなら、それに近づける道かもしれない。

「自分」とは、体だけでなく心だけでなく、精神的な存在として死によって滅びることなく、生きつづける存在だとしたら、「自分」は生まれもしないし死にもしない。
ただ、在る、ということ。それが時には体であり、それが時には心であったりする。
その時々の側面から意思を表現していくということなのだろうか。
そこにおける表現とはそれでは一体何のためにあるのか。何を意味するのか。
ただ、在る、では、いられないのか人間は。なぜ。

う~ん、あまり答えになっていないな。ていうか、重すぎて答えられないな。
 

投稿: 青沼国夫 | 2008年8月25日 (月) 00時44分

青lちゃん、コメントありがとう。

いろいろ考え合わせると確かに難しかったり深かったりして、何がどう正しいのか判らなくなることが多いです。

ただ青ちゃんが言うように、その都度に自分の頭で考え、身体で感じ入ったところでの判断しかないのでしょう。

最近、あらためて”禅”の世界に何か解答がないかと・・模索し始めてます。

勿論自分にできるのは、先人達の残したものに触れ、自分に置き換えるくらいなものだけど。

最近自分が関係する病院で医療事故があり、後日その96歳の老女の患者は亡くなりました。

自分としては医療事故に関して論ずる気はなく、むしろ論ずべきはそうした事態に遭遇した際の「元気なやつら」の対応です。

もちろん自分も含めてです。

雨降る日曜日だった昨日、高崎の達磨寺に行き半日過ごしてきました。何をするわけではなく、禅に関する書物を読みながら、時々聞こえてくる禅僧の読経の声音を聞いてるだけなんだけど。

傍らに、ここ最近近くにいる女しょうが一緒なのだが、たいして会話するすることもなく、邪魔になるわけでもなく・・・。

自分の実家は曹洞宗であり所謂禅宗の宗徒なのだが、今まであまり宗教について必要性や重要性を自覚しないまま過ごしてきたように思う。

高崎の達磨寺も禅宗・黄檗宗(おうばくしゅう)であり、基を辿ると曹洞宗と基を一にするみたいです。

今自分が最も関心が深く、かつ寝食を忘れられるのはこれら禅宗を取り巻く価値体系ですね。
しかし、禅の有名な僧侶達が口ぐちに言ってているのは、「価値」とか「修行」「の大事さではなく、”そこにあること””あるがまま”日々の中でのあり様そのもの”・・・なんですね。

結局のところ、他律的な価値というものは意味がなく、
自分がこれ以上ないと感ずるありのまま・・という感じなんですね。

今までの人生で、何物をも極めていないように思うけど、
これからも極めきれずに悶々と生きて行くのだろうか?

それは如何にもつらい。
自分の何たるか、何を由とするのか、
少しでも近づきたい・・と念じてます。

インドで発祥し、中国で育ち、日本に渡ってきた仏教・・・
地球のどこに生息しようとも共通する、”真理”もたいなものは必ず存在するように思います。

20年以上海外に生活する青ちゃんの、素朴なお話をもっと聞きたいですね。


投稿: クラナリ | 2008年8月25日 (月) 11時14分

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