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2009年1月

スリランカ通信(18)お正月特別企画    「セレンディピティ」

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スリランカ国立博物館

 あなたとわたしの「出会い」が必然なのか偶然なのかはさておき(必然に支配された偶然だとか、偶然の中の必然だ、などという声も聞こえてきそうだが)、「出会ってしまった」という事実がある限りー(その良し悪しは当事者が決めるとして)ーこれは消し去ることができない。「出会い」というものが一方通行でないことはすぐ分かる。「人」と「人」であれ、「人」と「事物」であれ、相手がいる(ある)のだ。その相手を見分ける、嗅ぎ分ける力のある人とない人とで、「出会い」の価値は大きく異なるであろう。

 例えば、Aさんが「出会い」の相手に優れたものを見出せば、Aさんにとってその価値はとてつもない宝物に匹敵することになる。しかし、その同じ相手にBさんが出会っても、Bさんが価値を見出さなければその出会いは無意味なものになる。無意味なだけならいいが、障害にさえなるかもしれない。つまり、「会わなきゃよかった」なんてことになる。したがって、「人生は出会いだ」などと言ったところで、その出会いを有意義にするお互いの資質というか力量というか、そのような能力を身につけておかないとせっかくの「出会い」もふいになってしまうのである。

 優れもの、ほりだしものに偶然出会い、発見すること(あるいはその能力)を「セレンディピティ」(serendipity)という。なかなか日本語には訳しづらい言葉だ。「セレンディピティ」は今日、自然科学の分野で注目されている能力であるが、生活一般、人間関係にも適用され得るものである。この「セレンディピティ」の語源は実はスリランカなのである。すでにご承知とは思うが、スリランカは1972年以前にはセイロンと呼ばれていた。しかし、いわゆる西洋の歴史でいうところの「大航海時代」にはアラブ商人たちの間で「セレンディップ」と名づけられていたそうである。その当時、この国には「セレンディップの三人の王子様」という民話があった。この話は三人の王子たちが自分たちの求めていないものに偶然出会い、幸福をつかんでいくというものである。この話を知ったホラス・ウォルポールというイギリスの作家(18世紀)が、思わぬ幸運に出会うという「出会い」そのもの、あるいは、それに出会う能力(発見する能力)を「セレンディピティ」と名づけたところから始まるのだそうだ。

 スリランカという国は、この「セレンディピティ」の語源にもなっていることからしてか、思わぬ出会いを予感させるところである。小さい島ながら(北海道を一回り小さくしたぐらいしかない)、自然や民族、文化の多様性という点では、まさしく「小宇宙」を形成しているといっても過言ではない。映画「2001年宇宙の旅」の原作者であるアーサー・C・クラークは自ら「セレンディピティ」を体験してスリランカに住み着いたという。彼にとってはスリランカという国自体が「セレンディピティ」(ほりだしもの)だった訳だ。

 もっとも最初から「セレンディピティ」を期待して活動するのでは、たとえ掘り出しものが発見されたとしても、それは「セレンディピティ」にはならないということは肝に銘じておかなければならない。ある目的を持って「それ」を追いかけているうちに別の価値あるものを発見するというのが、「セレンディピティ」の「セレンディピティ」たるゆえんなのである。

 今、あなたが出会っているその人(もの)は「優れもの」か「ほりだしもの」か、それを見つける能力があなたにあるかどうか。今一度、他(人)を見つめ、自分を振り返ってみよう。

 「セレンディピティ」に気付く能力、身につけられれば人生はより豊かになる。


 さあ、キミ、そこのキミも、部屋に閉じこもっていないで、
「PC捨てて街へ出よう」
新しい出会い、思いがけない出会いがキミを待っているよ。
(いやあ、だからそれは違うんだって…)
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巨大コーラのビン出現


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