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2010年10月

スリランカ通信(22) 「スリランカの某有名スーパーのレジの前で」

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スーパーのレジで会計の順番を待っている。
ぼくは3番目。
すぐ前には母娘の二人。
母親はボーっとして、娘はきょろきょろして後ろのぼくを見ては愛想笑いなど浮かべて、
次を待つ。
少しの買い物だ。
一番目の客は大量にカード買いしてる。
やっとその人のレジが終わって、それから次はすぐ終わるはず。
レジ係がどこかへ行った。
よくあるんだ。
客をほっといて、品物チェックしに行ったり、お金を両替したり。
だから、ランカのレジは時間がかかる。
袋詰めしていた、補助員も、しばらくぼーっとしたあと、袋を片づけたりしながら、どこへとなく去って行った。前の母娘は、レジ係が戻るのをじっと待っている。
だが、係はなかなか戻ってこない。ぼくは、しびれを切らして隣のレジへ移った。
そこは、たまたま、後続がいないから、すぐ順番が来る。
さっきのレジカウンターを見ると、まだ、母娘がボーっと立っている。
しばらくして、その二人も移ることにしたようだ。
娘が買い物かごを持ってきて、さっきまで並べていた物を入れ直した。別のレジに移った。
そして、そのレジには誰もいなくなった。
スペースだけを残して。

店員の誰も…レジ係も補助員もカート押しのおじさんも、私や前にいた母娘が、レジ係が戻ってくるのをじっと待っていたのに、それをみんな知っていて何も言わないで、どこかへ行ってしまった。
気がつかないふりでもなく、まったく我々の存在がないかのように、見事に、自然に、黙って、いなくなった。
お昼時でもあったし、休憩にでも入ったのだろうか。
店員のだれも「ここは閉まります」と教えてくれなかった。
待っていた母娘も、そのことを怒る風でもなく、「ああ、このレジは中止になったのね」と、やっと分かったというような顔で、別のレジへと移って行った。

あの、さっきのレジ係が戻ってくるだろうと、ボーっと待っていたあの時間。あれはいったい何だったのだろう。何も知らないで待っている客に対して「隣のレジへ行ってください」とも、何とも言わないのだ。そして、私の前でおなじようにボーっと待っていた母娘もそのボーっとした時間を当然のごとく受け止めて、他のレジへ移っていったのだった。

スリランカ人にとって、これは当然のあり方なのだろう。だが、日本人のぼくには納得がいかない。不可解極まりない所業なのだ。なぜひと声「このレジはここで休止します。他のレジに移ってください。」と言えないのか。客に対して失礼ではないのか。客である我々はいつかレジ係が戻ってくるだろうと思って待っているのだ。一言があれば、無駄な時間を過ごすことはなかった。そもそも、並ばせておいて、何も言わずに勝手にいなくなるとはどういうことなのだろう。ここで打ち切るつもりなら、「この人でこのレジは閉めますから他へまわってください。」と言うのが、親切な対応というか、当たり前の対応ではないか。それで、気持ちよく買い物ができ、また来ようとも思うのではないか。なぜ、わざわざ人を怒らすようなことをするのだ。

不思議なことのもう一つ。あの母娘だ。なぜ怒らないのだ。買い物かごからレジ台の上に物を並べて今にもお金の計算をしてもらえる状態をつくっておいて、じっと待っていたではないか。その行為を踏みにじられ、いつか戻って会計してくれるよねと思っていた気持ちを裏切られて、どうして文句の一つも言わないのだ。こんな仕打ちを受けても、怒らないで普通に受け止めたということは、母娘よ、君たちも他人に対してそのように振る舞うということなのか。レジ係がいなくなったら、ジーっと待っても、戻ってこなかったら「ああ、ここはもうレジをしないのね。」と自分で判断して、他のレジへ移ればいいということなのか。それでは、あまりにも冷たいさびしい人間関係ではないか。それは日本人だからそう思うのか。この人たちは思いやりとか人に対する気遣いとかそんなものがないんだろうか。いや、そんなことはない。以前、大学の旅行の時に借りたシーツをホテルに忘れてしまい、申し訳なく思って別のを買って返したのに、絶対に受け取ってくれなかった。親切というか、他人に対する思いやりは十分に持っている人たちなのだ。だが、それは知人に対してまでなのかもしれない。あくまでも、知っている人に対して向けられる感情・行為なのかもしれない。「店員と客」はまったく他人の関係なのだ。

このような文化を「不干渉の文化」と名付けよう。それはある限られたグループから外れた人々に対する距離の取り方なのだ。それは「不感症の文化」でもある。豊かな人間関係の奥行きというものが感じられない。関わらないようにしているのだ。これまでの、様々な軋轢を歴史的に体験してきた植民地の人々の生きる知恵、世渡り文化の一類型なのかもしれない。フィリピン人やミャンマー人にも共通する「素直な頬笑みのない世界」なのだ。タイ人の、屈託のない明るいスマイルとはわけが違う。スリランカの人たちは独特の首振りをする。顎を基軸にして頭を左右に振る。これはスリランカ人の「はい」の仕草なのだが、他国人から見たら「いいえ」と言っているように見える。よく観察すると、確かにNOの横に振る首振りではない。横振りのような斜め振りのようなあいまいな仕草である。この仕草こそ、彼らが植民地時代に身につけた、生きていく術ではなかったかと、私はにらんでいる。つまり、総督から命令されて本当は「NO」と言いたいが、そうすると殺されるので「これは『Yes』なんですよ」と、出そうな本音を押さえつけて、ごまかし続けてきた結果の産物なのであろうと推測する。そのような歴史的文化的な背景があるにちがいない。

この国の人たちは、自分に関わりない外の人たちに余計なことはしない。干渉しないことが一番だということを学んできたのだ。親切のつもりで他人に関わったりすると、後で自分が痛い目に会う。そんな経験を何度も繰り返してきたのだろう。おいそれと、見知らぬ他人に思いやりなど示してはならないのだ。それほど人間は甘くないんだよということを知っている。日本から南西へ向かうほど、そのことを思い知らされる。

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