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スリランカ通信(20)   「月の中のウサギ」

 日本のお月さまの中ではウサギが餅つきをしていることになっているが、スリランカのお月さまの中ではウサギが座っているのだそうである。いずれにしても、日本でもスリランカでもお月さまの中にウサギを見ていたというのは面白い。
 スリランカでは満月の日(29日から30日ごとにやってくる)はポーヤ・ディと呼ばれて国民の休日になっている。多くのシンハラ人はお寺へ参拝に行く。

「むかし、むかし、ウサギとサルとカワウソの三匹が川のそばの森に住んでいました。」で始まるスリランカの民話がある。「月の中のウサギ」だ。あらすじを紹介しよう。
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 三匹は他の動物と同じように、一日中食べ物をさがしまわっている。夕方になると川岸に座って、一日の出来事を話し合うのが習慣になっていた。三匹の中で賢く性格の良いのはウサギだった。このウサギは自分の生き方を教えようとしていた。サルとカワウソはウサギの素晴らしさを知っていたのでウサギのいうとおりにしてきた。三匹はポーヤ・ディの教えを守ってその日は殺生しなかった。その前日までにカワウソは魚を、サルは蜂の巣をウサギは草を数本、準備するようにしていた。ウサギは言った。
「欲している人に何かを与えるのは良いことです。少なくともポーヤ・ディにはそうしなくてはなりません。」
カワウソが言った。
「もし今日誰かが来たらわたしの魚をあげよう。」
サルも言った。
「もし今日誰かが来たらわたしの蜂の巣をあげよう。」
しかし、ウサギは悲しくなった。自分には草の葉しかない。誰が葉っぱなど欲しがるだろう。与えるものがない。ウサギは言った。
「人間はわたしの肉が好きだからお腹をすかせた人が来たら私の肉を焼いてあげよう。」
カワウソとサルはふるえあがり泣いて反対したが、ウサギの決心は揺るがなかった。
 あるポーヤの日、ひもじそうな老人が川のそばにやってきた。サルは蜂の巣を与えた。カワウソは魚を与えた。しかし老人は言った。
「私はまだお腹がすいています。もっと私にくれるものはないですか。」
ウサギがついに前に出て言った。
「私たちにはもうこれ以上さし上げるものはありません。でも、わたしの肉をあげることはできます。どうぞ、私を焼いてください。」
それから、サルとカワウソに近づいて言った。
「私のことを悲しまないで。私たちはいつか死にます。私たちは一緒に教えを守りました。たくさん良い行いもしました。私がいなくなっても良い行いを続けて幸せになってください。」
 ウサギが火の中に飛び込んだ瞬間、老人がウサギを腕の中に抱きとめた。それから川の中の長い葦を折り取って、ウサギを抱えたまま空に昇って行った。月の面にその葦でウサギの絵を描いた。
「この素晴らしい贈り物を世界中の人々が覚えておくように、世界中の人々がこの与えるという究極の姿を忘れないように。」
 老人は神様だったのです。神はウサギを地上に下ろし、仲間のところにもどしてから天国へ帰っていった。
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 長い間続いていたスリランカの内戦が終結した。これからはテロの恐怖におびえずにのびのびと暮らしていけるのだろう。わたしの学生にとっては生まれたときからの戦争状態。初めてかみ締める平和な生活。うれしさがこみ上げてくる気持ちは無理もない。スリランカでもっとも有名な人物はと聞いたところ、だれもがラジャパクサ大統領の名前をすぐさま挙げた。

 大きな戦争を経験している日本だが、戦無派の私にはなかなか分からない部分でもある。
コロンボ市内では連日、爆竹が鳴りパレードが行われている。それぞれが浮かれて踊りまくって喜びを表している。「平和」本当にそれは貴重なものだと思う。
 だが、これまで何人の犠牲者がいたのだろうか。この数ヶ月間は強攻策によって多くの難民を出し、国際的な批判も浴びている。
 力で勝ち取った平和だった。

 1951年のサンフランシスコ講和会議に当時のセイロン代表として出席したジャヤワルダナ氏は、スリランカの被害や損害について日本に賠償を求めるべきだが、その権利を行使するつもりはないとした。その理由は、「憎しみは憎しみによって止むことなく、愛によって止む」という言葉があるからだと言った。
 その言葉が私の脳裏を横切った。

 月の中の「ウサギ」はどんな思いで、この終戦を見ているのだろう。

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下町のお寺

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スリランカ通信(19)           「ケラニア大学騒動記」         きみは催涙ガスを浴びせられたことがあるか

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ケラニア大学ゲート

 スリランカの大学ではどこもかしこも、ストライキがあったり、ケンカがあったり、イジメがあったりする。施設が不備だとか、講義がしっかりなされていないとか、大学側の問題は確かにある。だが、最も大きな学生の不満は「差別」に対してのようである。往々にしてコロンボを中心とした都会の住人はさまざまな恩恵を受けているようである。それに対して地方出身の学生は妬み?を持ち、何かにつけて抗議行動を起こすということだ。自治会の中の権力争いもある。その他にも政党のセクトが関係していたりするケースもあり、複雑に絡み合って事件が起きる。私は2007年にケラニア大学に赴任して4タームをこなしてきたが、1つの学期中で1度もスムーズに授業が進んだためしがない。

 新入生を迎える学期始めは必ずイジメがある。このイジメは堂々と公道で行われる。新入生の特に女子学生が先輩の男子学生に学内の路上で呼び止められ、1時間、2時間と説教される。この時期、大学を訪問すればすぐ分かる。歩道側に先輩の学生たち(その数、数十人)が立ち並び、新入生が通るのを待ち構えている。そして、次々と呼び止めて、服装や髪形にいちゃもんつけたり、態度やマナーについて訓示を垂れたりする。そういう連中ほどマナーという言葉からは程遠い輩なのだが……。とにかく、新入生としては授業に行きたくても行けない。頭をうなだれてじっと聞いているしかない。無視したら後が怖い。このイジメはケラニア大学だけではなくスリランカの複数の大学の悪習になっている。このために大学に来なくなり、ついには退学した学生もいるとのことだ。つまらない虚栄心や先輩風の犠牲になって人生を狂わされる人もいるのである。このイジメ、少なくても1カ月以上続く。大学側も放って置いているわけではなさそうだ(と思いたい)が、これといった決め手を出せずにいる。

 昨年は学期の途中で学生同士のケンカがあった。理学部と人文学部の学生の争いだった。原因は先に紹介したイジメについて両学部の「意見の食い違い」である。大学側は制裁として2週間大学を閉鎖した。その禁が解かれて1カ月後、その処分に不満を持った学生たちのストライキがあり、これまた、1週間、休講を余儀なくされた。

 今回は数日前から前兆があった。学生集会が開かれた。大学周辺を警官がうろつき学生に質問してメモを取ったりしていた。小さなけんかも起きていた。2月5日は1000人ほどの学生が集まった。その中で起きた騒動である。

 午後の講義を終えた。環境問題について学生らと議論を戦わせた後だった。私の学生たちは地球温暖化や環境汚染にも強く関心を持っている、政府の対策がどこまで進んでいるか、我々個人がどんなことができるかといったテーマで白熱した議論となり、私自身も満足して終わったところだった。教室から講師室へ戻る途中で、目が痛くなる。他の人たちも目を押さえたり、口を押さえたりしている。ハンカチで涙を拭いながら顔をゆがめている人もいる。異臭も感じた。なんだ、これは?異変が起きているぞ!!

 講師室で事情を聴く。大学生同士のケンカがおきて、それを止めに入った警官が催涙ガスを撒き散らしたようである。時々、「キャアー」という悲鳴と共に、どどっと押し寄せる足音が聞こえる。建物から外へ出た学生たちが、催涙ガスの投下を浴びて校舎内に逃げ戻って来るのだ。しかし、ガスは煙幕となって風に乗り、我々の眼を赤くする。窓からも霧のようなガスが室内に押し寄せてくる。その度に目が痛くなる。数回、そんなことが繰り返されて後、少し静かになった。

 4時ごろ、お坊さん先生の「少し落ち着いたようだ。今なら出られるかもしれない」という言葉を信じて、私は同僚のKY先生と退出態勢に入る。KY先生は同僚といっても1周り年上。同郷のよしみもあり敬意を表している。岩手出身である。何と奇遇であることか。この先生、細面の優男なのであまり頼りになりそうもないが、一人より二人の方が心強い。一緒に騒動の中を突破することにした。校舎内外に学生がうろうろしている。もちろん授業にならない。他の先生たちはじっと動かず待機。帰り支度が整い、いよいよ出発。

 さざ波、うつろいでいる学生たちを掻き分け外へ出る。人だかりの山だ。ここもまた掻き分けて前へ進む。後、10数メートルで最前線へ出る、というところで「Don’t go!!」という声がした。事務員に危ないから行くなと注意されたのである。その声を聞いた私はKY先生を引き止めようとするが、彼はわき目も振らずどんどん進んでいく。私もしかたなく腹をくくって後についていく。ついに最前線に出た。ゲートが閉められている。そのゲートを挟んで学生たちと警官らがにらみ合っていた。学生の数100名ぐらいか、警官は20名足らず。学生たちは警官に向かって口々に罵声をあびせている。それに食いつくかのように警官も脅しをかけている。その間に挟まれた緩衝地帯、わずか10メートル。警官らがいるゲートの外側に向かって我らは進む。「我ら」というより、「KY先生の堂々とした姿の後ろを私は影のようにコソコソ追い従う」というのが正しい表現なのだが…。前門のトラ、警官らの鋭い視線が怖い。目を合わせないように、ひたすらKY先生の身体を盾にしながら進む。後門の狼たち、学生の罵声が背後から聞こえる。まるで、その罵声が自分に浴びせられているようで足がひるんでしまう。KY先生に寄りすがりながら何とかゲートの狭い隙間を通過した。

 一安心。ゲートを渡り終わったときは、思わず小走りに……。情けない自分の姿をみてしまったのだった。それにしても、こうした膠着状態とはいえ、一触発の場面を、よく泳ぎきったものである。人文学部の敷地は警官に包囲され、過激派学生の後にいる一般学生も、校舎内に残っている教員たちも、帰りたくても帰れず、うろうろするばかりの所だったのである。そんな中を堂々と通り抜けたKY先生、全共闘世代だった。「昔を思い出すなあ」と言いながら、ひょうひょうと学生、警官のにらみ合いの中を過ぎた。あちきもその後をコソコソと。我が先輩の腹の据わった態度、奥ゆかしくもたくましい魂を見せ付けられたのだった。

 バス通りからキャンパスに入る側道には石ころ、コンクリートなどの瓦礫が散乱している。学生たちと警官らが激しくやりあった跡が生々しく残っていた。KY先生、「日本の3,40年前だなあ」ボソッとつぶやく。「イチゴ白書」がフラッシュバックする。我が学生時代にも機動隊と学生の衝突があった。目の当たりにしている。シュプレヒコール、ジグザグデモ、大衆団交、そんな言葉が頭をよぎる。KY先生と私は、大学の前に居座っている仏像を脇目で見ながら、メインロードのバス停に向かう帰路を急いだ。

 後日、騒動の原因を聞いた。実は発端の真相はいまだに不明。13名の学生が逮捕された(一週間は確実に拘留されるとか)。そのうち8名が女子大生(6名が1年生)。報道陣が駆けつけ、テレビでも放映された。警官の行きすぎもあったらしい。必要以上の暴行。女子寮への男警官の侵入。(スリランカの法律では女子寮に踏み込む際は女の警察官でなければいけないことになっている。)このことが学生たちの怒りを倍化し騒動が激化した模様である。催涙ガス弾は20発以上撃ち込まれたとのことだ。

注:KY先生は「空気が読めない」先生ではありません。イニシャルです。念のため。

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学生と警官が衝突した場所

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スリランカ通信(18)お正月特別企画    「セレンディピティ」

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スリランカ国立博物館

 あなたとわたしの「出会い」が必然なのか偶然なのかはさておき(必然に支配された偶然だとか、偶然の中の必然だ、などという声も聞こえてきそうだが)、「出会ってしまった」という事実がある限りー(その良し悪しは当事者が決めるとして)ーこれは消し去ることができない。「出会い」というものが一方通行でないことはすぐ分かる。「人」と「人」であれ、「人」と「事物」であれ、相手がいる(ある)のだ。その相手を見分ける、嗅ぎ分ける力のある人とない人とで、「出会い」の価値は大きく異なるであろう。

 例えば、Aさんが「出会い」の相手に優れたものを見出せば、Aさんにとってその価値はとてつもない宝物に匹敵することになる。しかし、その同じ相手にBさんが出会っても、Bさんが価値を見出さなければその出会いは無意味なものになる。無意味なだけならいいが、障害にさえなるかもしれない。つまり、「会わなきゃよかった」なんてことになる。したがって、「人生は出会いだ」などと言ったところで、その出会いを有意義にするお互いの資質というか力量というか、そのような能力を身につけておかないとせっかくの「出会い」もふいになってしまうのである。

 優れもの、ほりだしものに偶然出会い、発見すること(あるいはその能力)を「セレンディピティ」(serendipity)という。なかなか日本語には訳しづらい言葉だ。「セレンディピティ」は今日、自然科学の分野で注目されている能力であるが、生活一般、人間関係にも適用され得るものである。この「セレンディピティ」の語源は実はスリランカなのである。すでにご承知とは思うが、スリランカは1972年以前にはセイロンと呼ばれていた。しかし、いわゆる西洋の歴史でいうところの「大航海時代」にはアラブ商人たちの間で「セレンディップ」と名づけられていたそうである。その当時、この国には「セレンディップの三人の王子様」という民話があった。この話は三人の王子たちが自分たちの求めていないものに偶然出会い、幸福をつかんでいくというものである。この話を知ったホラス・ウォルポールというイギリスの作家(18世紀)が、思わぬ幸運に出会うという「出会い」そのもの、あるいは、それに出会う能力(発見する能力)を「セレンディピティ」と名づけたところから始まるのだそうだ。

 スリランカという国は、この「セレンディピティ」の語源にもなっていることからしてか、思わぬ出会いを予感させるところである。小さい島ながら(北海道を一回り小さくしたぐらいしかない)、自然や民族、文化の多様性という点では、まさしく「小宇宙」を形成しているといっても過言ではない。映画「2001年宇宙の旅」の原作者であるアーサー・C・クラークは自ら「セレンディピティ」を体験してスリランカに住み着いたという。彼にとってはスリランカという国自体が「セレンディピティ」(ほりだしもの)だった訳だ。

 もっとも最初から「セレンディピティ」を期待して活動するのでは、たとえ掘り出しものが発見されたとしても、それは「セレンディピティ」にはならないということは肝に銘じておかなければならない。ある目的を持って「それ」を追いかけているうちに別の価値あるものを発見するというのが、「セレンディピティ」の「セレンディピティ」たるゆえんなのである。

 今、あなたが出会っているその人(もの)は「優れもの」か「ほりだしもの」か、それを見つける能力があなたにあるかどうか。今一度、他(人)を見つめ、自分を振り返ってみよう。

 「セレンディピティ」に気付く能力、身につけられれば人生はより豊かになる。


 さあ、キミ、そこのキミも、部屋に閉じこもっていないで、
「PC捨てて街へ出よう」
新しい出会い、思いがけない出会いがキミを待っているよ。
(いやあ、だからそれは違うんだって…)
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巨大コーラのビン出現


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スリランカ通信(17)クリスマス特別企画「私の部屋」

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私の部屋

 「私の部屋」などと言うと、うら若き乙女の独身生活が覗けると勘違いしてアクセスする中高年(若年層も?)のオジサマの姿を想像してしまうが、確かに「私の部屋」なのでいたしかたない。今回は皆様へのクリスマスプレゼントとして私の部屋を限定公開する。かつて旧友の寿夫君が「私の部屋」というブティックというか女子高生向けの小物の店をオープンして、小生も駆けつけた記憶があるが、あの類のものではなく正真証明の私の住んでいる部屋である。

 海外に住んでいる日本人は大まかに3つのタイプに分けられる。①現地の方と結婚され地元に根付いている日本人。②現地の人と同じ条件で仕事をして生活をしている日本人。③日本から送り込まれ数年で帰国が約束されている日系企業や政府関係機関の派遣者。以上の3者である。私は①の経験はないが②と③の経験がある。先進国では、それほど大きな差はないが、発展途上国では②と③では暮らし向きが大きく異なる。生活費が日本とは随分かけ離れているからだ。③のケースでは日本と同じ給料をいただくことになるから、やりかたによっては贅沢三昧?できる。当然②との生活格差が激しくなる。給料は②の場合は③の5分の一から10分の一、家賃は②の人が多く住んでいるのは1カ月1万円くらいのアパート(一間、シャワーのみ)に対して、③の場合は2LDK~4LDKで、その他、運転手が付いたり、メイドがいたりするのである。

 普通の暮らしぶりの紹介でなければ、「私の部屋」は分からない。現地採用で働く外国人はアネックスと呼ばれる2世代住宅のような造りの建物に住む。1階に大家がいて2階のスペースを借りて住むのだ。1LDKから2LDKで1万円から2万円くらい。しかし。給料のことを考えると厳しい条件だ。それに、雨漏りがしたり、アリがやってきたり、ヤモリ,蚊などの侵入者もいる。毎日、いろいろな格闘があるようだ。

 私の部屋は10階建てのアパートメントの8階にある。駐車場、プール付きでガードマンが3~4人、24時間の警備体制で安全も確保されている。このアパートはワードプレイスという高級住宅街の一角にある。近くには高等教育省、フィンランド大使館、アーユルベーダの店もある。コロンボで有名な「オデール」というデパートまで歩いて10分の所である。部屋は3ベッドルーム、リビング,台所、収納室、メイド部屋もある。しかし、私はメイドを雇わず、車も持たず、一人静かにつつましく暮らしている。快適な環境だ。特に問題ないが、部屋が広すぎて掃除に苦労している。もともと無精なのでほとんど掃除をせず汚くしている。料理もあまりしない。近くにスーパーがないので買い物に不便ということもある。一週間分買い置きして食べやすいものを食べる。「聡明な女は料理がうまい」と言った作家がいたが、「聡明な男は何が上手」なのだろう。せめて、それにあやかりたいものである。一人でいるのは好きなのだが、一人暮らしは上手ではないのだ。それで、困っている。
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私が住んでるマンション

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スリランカ通信(16) 人物オーライ??往来!?All Right !!             「リッチモンド・キャッスルの住人」

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講堂


 映画のタイトルみたいだ。リッチモンド・キャッスル。王宮とかキングパレスとも呼ばれている中世の貴族の城がある。広い庭園。奥には深い森。屋敷は中世の館。実際に映画のロケにしばしば使われるらしい。数年前にはイタリアの映画チームがやってきて撮影したという。

 カルタラの町。コロンボからハイウェイバスで1時間の所。狭い、それでもバスが通っているという小路から、さらに脇道に逸れて小高い丘を登っていく。年寄りが歩くにはきつい斜面。ふうふう言ってたどり着いたところにこのお城はあった。

 邸内は広い。背後に森を抱えているこの屋敷はまさしくお城だ。今回の2番バッターはこの王宮に住むアリーさんだ。韋駄天のごとくリッチモンドの森を駆け巡り、青少年の育成を見守る姿は、俊足にして手堅い守備を誇る2番バッターに匹敵する。

――なんともすごい屋敷ですね…
A: そうですね。昔のイギリスの植民地時代のものですから古いことは古いですが、しっかりした建物です。
――あのステンドグラス(天井近くの壁にはめてある)、スリランカのものではなさそうですが。
A: ここを建てる時にわざわざスイスから取り寄せたものだそうです。船で数ヶ月かかったそうですが。
――少年の家を経営されているんですね。
A:ええ、前は50人程いたんですが、今は3人だけです。今度20人入る予定です。
――みなさん、ご両親がいらっしゃらないとかですか。
A: 貧しい家の少年たちです。6才から17才まで預かってここで勉強を教えています。
――卒業後はどうしてますか。
A: 家に帰って仕事をしたり、また勉強を続ける子もいます。医者になった子もいるんですよ。
――少年の家とおっしゃっていますが、少年だけですか。少女はいらっしゃらない?
A: この城の持ち主だったイギリス人の遺言なんです。少年だけの面倒を見る。少女はダメ。
――それはどうしてですか。
A: 実はその昔、彼の奥さんだった人が、お抱え運転手と駆け落ちしたということがあって、それ以来、女性不信に陥ったようなんですね。
――なるほど、相当ショックだったんですね。遺言にまで入れるなんて…。
  政府のバックアップはあるんですか。
A: 1956年から援助を受けています。しかし、屋敷のメンテナンスだけです。それも、ご覧いただければ分かりますが、十分ではありません。福祉の知らない人が口は出してもお金は出してくれないんです。
――そうですか。どこの国も同じですね。では、どうやって経営を維持しているんですか。
A:ここは自然に恵まれています。広大な土地がある。この施設はここでゴムやココナッツを売って収入を得ているんです。政府からはお金をもらっていない。
――そうですか。なかなか厳しいようですね。
A:ええ、そうです。しかし、私には仲間がいます。ここの財団は仲間と4人で作ったのです。将来、これを発展させて行きたいと思っています。
(インタビュー後記)
 アリーさんはお年以上に若く見える。その秘訣は楽観的な気持ちを忘れないことだという。いやなことがあってもくよくよしない。もともと最初から何もなかったから、失うものもない。ただひたすら自分の信念に基づいて福祉の仕事に専念している、とのことだ。最近は遺言に背いて少女も受け入れているらしい。素晴らしい人生だ。彼と話していると自分まで穏やかな気持ちになって、心が洗われていくようだ。アリーさんの人生に乾杯。   
 人生は出会い。人生は旅。出会いの旅はまた続く。

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上:教室、下:アリーさん

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スリランカ通信(15) 人物オーライ??往来!?All right!!

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ディルさん


 人生の楽しみって何だろう。それは人それぞれ違う。だが、だれもが認める楽しみ、共通の楽しみ、それは「出会い」だと思う。世の中には自分と似たような人物が3人いるといわれるが、ある程度長く生きてくると同じタイプの人に出会う。よく見ると違うのだが、その人を見ていると遠い昔に出会ったあの人を思い出したりする。

 「一期一会」という言葉がある。何度も会っている人物であっても、その時の出会いはその瞬間限りのもの。それはいつも同じものではないから、大切にしようというものだ。海外に暮らしてもそれは同じだ。出会いはいろいろな方角から様々な時を経て、形を変えてやってくる。その瞬間を切り取ってみたいと思った。

 トップバッターはイチロウに匹敵する天才的言語のプレイヤーであるディルさん。

――今日はお忙しいところ、ありがとうございます。
デ「こちらこそ、こんな狭いブログにお招きいただき……少々きゅうくつですわね。」

――早速ですが、理想の男性は…
デ「それはもう、あおちゃんのように、やさしくて思いやりがあって頼りがいのない人ですわ、おほほ。」

――日本語が大変お上手ですが、
デ「あ~ら、そんなことはありません、まだまだです。高校で2年、大学で3年、日本でも3年ほど勉強させていただきましたので、まあ、人並みにはなってきたかとなあ、と。」

――子どものころはどんなお子さんでしたか。
デ「みんなからできる子と思われていて、そのイメージを守るために努力してきたというか、でも、もともと明るい性格だったと思いますので…。」

――その頃の夢は
デ「お医者さんになりたかったんです。困っている人を助けるような仕事をしたかったんですけど、でも、理科系がそこまで行かなくて、あきらめました。」

――日本語を学び始めたきっかけは
デ「高校の頃から言語に興味があっていくつか試みました。フランス語や中国語も勉強しました。でも、日本語が一番、親しみがもてたんです。」

――ご結婚なさっていますか。
デ「まあ、答えにくい質問ですこと。まだです、と言えば、殿方にもてないみたいですし、してます、と言えば恋のキューピットが逃げていきますし…、どうしましょう、困りましたわ。」

――???(気を取り直して)趣味とか特別に関心を持っていることはありますか。
デ「歌を聴くことです。特にシンハラ語の歌。やはり、意味が分かることが一番ですから。それと、やっぱり、教えることが好きですから、暇があるとそのことばかり考えていますね。」

――自分は何か他の人と違うなあと思うことがありますか。
デ「ええ、そうですねえ、なんというかなあ、いやな人と上手に付き合えないというか、話が合わない人とはだめですねえ。結構、みなさん、うまくやっているんでしょうけど、わたしはだめですね。」

――今、大切に思っていることは何ですか。
デ「学位です。日本の学位をとりたい。それと、やはり、教えること。学生に役立つものを上手に教えたいです。」

(インタビューを終えて)
ディルさんはケラニア大学の主任講師であり、名古屋大学の博士後期課程に在籍する院生でもある。明るくはきはきした性格は周りの教員や学生から親しまれ、頼りにされている。日本人の機微をも理解する日本語の達人でもある。彼女のリーダーシップにより学生たちは生き生きしていると周囲の評価も高い。彼女のような存在がスリランカの日本語教育を支えていく限り、将来は安心である。一日も早く学位を取り、日本語教育に専念できる日を心よりお待ち申し上げたい。

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スリランカ通信(14) リフレッシュ in キャンディ(4)「独白」

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雨に煙るキャンディ

 旅の終わりも雨の日がいい。高野悦子が言ったわけではない。流れた涙をごまかせるからと言うわけでもない。ましてや雨具を忘れることがないからでもない。雨は人を包む羊水なのだ。カラカラに乾いた俺のような心にはその一滴が命の泉となる。

 人の弱みにつけ入り、もてあそび、自己満足の花を咲かせた俺に、最もふさわしい報酬を失恋男はくれたのだった。実は気づいていた。やつがウィートレスに色目を使っていたことを。それで、あえてウェートレスに意地悪をしたのだった。彼女には悪いことをした。直接、やつに当たるべきだったのだ。失恋という重い出来事を軽々しく扱うやつに説教してやるべきだったのだ。

 この失恋男、もともと成り行きで付き合ってきた飲み友達だ。信頼を置いていたとか、尊敬に値する人物だとか思っていたわけではない。

 もう限界だったのかもしれない、やつのわがままに付き合うのが。すぐ人を好きになって何もかも忘れて夢中になる。そんなやつをうらやましいと思いながらも、どこかで軽蔑していたのかもしれない。やつから何かを得られるとか、やつと一緒にいると時間を忘れるとか、そういうことが無くなっていた。一方的に自分の話しをして満足して帰るやつに愛想が尽きていたのかもしれない。やつの失恋話を聞いて俺は同情した。だが、どうしても同じように落ち込めなかったのだ。

 人が人を好きになるってどういうことなのだろう。もし、やつが本当にやつの彼女を愛しているのなら、彼女がやつを愛していなくてもいいんじゃないのか。彼女がやつを愛してくれないから、やつも彼女に対する愛が無くなってしまうというのか。それって、もともと、やつは彼女を愛しているのではなくて、彼女から愛されたいがための口実を作っていたに過ぎないんじゃないか。本当に愛していたと言うのなら、彼女がやつを好きじゃないとしても失恋なんかするはずがないじゃないか。

 まあ、世間では、自分が好きでも相手が好きでなくなっていたら、それは「失恋」というものだ。そんなことは分かっている。だけど、そんな恋愛って自分勝手すぎないか。そんなやつには本当は他人を愛する資格なんてないんだ。自分で自分を愛せないから、彼女に愛してもらいたかっただけじゃないのか。もし、やつが本当に自分を愛しているのなら、他人に自分を愛させようとすることはないはずだ。なぜって、他人に愛を強要するような自分を自分自身で好きになれるかい。彼女がどうであろうと、やつは彼女を愛している。それでいいじゃないか。

見返りを期待して人を好きになるわけじゃないだろう…。
とは言っても、好きになったら求めるか、やっぱり…。
もっと違う形があってもいいんじゃないかな…。

この場合、どうして特定の「だれか」なのだろう……。
どうして「その人」でなければだめなのだろうか……。

雨に煙る古都、キャンディ。
優しく人を包んでくれる街だ。

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スリランカ通信(13)  リフレッシュ in キャンディ(3)「キャンディ湖畔」

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かわいい女の子


 外へ出てキャンディ湖畔を歩く。湿気が少なく風が涼しい。コロンボのじめっとした重苦しい空気ではない。爽快感漂う。やはり、ここは失恋男と来る所ではないのだ。俺は、昔愛した女と歩いている場面を想像して気分が高揚してきていた。それを現実に引き戻すバカが隣でわめく。

 「アホヌマさん、ぼくはね、彼女ではなく、彼女の幻影に恋してたのかもしれないな。ぼくの作り上げた幻影を…。」
 失恋男は過去を回想するかのように視線を宙に漂わせ、しみじみとした調子で言う。自分の言葉に酔っているようだ。幻影なんて言葉、どこで覚えやがったんだ。それにしても、やつの発音が気になる。「アオヌマ」なのに「アホヌマ」と聞こえる。まさか、わざとじゃあるまいな。

(つまらぬやつだ。だから、お前はふられるんだ。)と、でかかった言葉を飲み込んで、
「つまら、いやぁ、つまり、お前は恋に恋してたってわけだな。じゃあ、もう、大丈夫だろう。すぐ立ち直れるよ。」俺は励ますふりをして応えてやった。
「新しい恋がすぐみつかるさ。また、恋に恋かも知れんけど…。」
(そして、事実、本当にすぐ見つかったのだった。)

 腹ごしらえに近くのレストランへ行く。やつの気分もほぐれてきたようだし、この辺でビールでも飲みながら更にリフレッシュ気分に浸らせてやろうと店に入るが、数件回ってもアルコール類は置いてなかった。お寺の近くのためだろうか。しかたなく、最後に行き着いた店で、フライドライスに中華料理のぶっ掛けごはんとコーラ、それと、デザートにアイスクリームとフルーツを頼む。

 一皿の量が多い。サウジでもそうだったがわんさかと山盛りにして出てくるのだ。結局、食べきれず、3分の1を残したまま、デザートを運んでくれるように言った。かわいい女の子だった。年のころは20か、いやあ、18かもしれない。コロンボでは見たこともない純朴さも持っている。デザートをテーブルに並べた。だが、これは自分たちが頼んだものではない。隣の席のものと間違えたらしい。そこで、すぐ、頼んだものを持ってくるように言いつけたのだが、なかなか出てこない。どうやら、オーダーが入っていなかったらしい。新しく作っているのだ。何てことだ。自分たちより遅く来た客が、先に食べ終わって帰って行くではないか。おまけにお酒にもありつけなかったし…。ええいっ、くそっ、あのウェートレスがいけないのだ。ボーっとして仕事をしているから。なぜか無性にイラついてきた。

 俺はその子を呼びつけて、ねちねちと説教し始めた。「俺たちが頼んだのはアイスクリームとフルーツが別々のもの。お金を払うとき何度も言ったじゃないか。何で、もっとしっかりしないんだ。」女の子はうつむいたまま唇をかんで下を向いていた。今にも泣き出しそうな顔をして、それをじっとこらえている。そんな女の子をさらに威圧してやろうと詰め寄る。すると、あの気弱な失恋男が俺の前に立ちはだかり、俺の顔面めがけてパンチを食らわせたのだった。
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キャンディ湖


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スリランカ通信(12)  リフレッシュ in キャンディ(2)「仏歯寺」

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仏歯寺


 仏歯寺、仏陀の歯が安置されておりDalada Maligawa と地元の人は呼ぶ。B.C.547年に仏陀が火葬(本当か?)されて後、インドから密かにスリランカに持ち出されたのは4世紀といわれている。インドのオリッサ州のカリンガ王子が頭髪の中に隠して持ち込んだものらしい。この仏歯はアヌラーダプラに奉納されて以来、転々と当時の首都を経由して1590年にキャンディに到達したといわれている。仏歯のある所が都の置かれる場所なのである。したがって、スリランカ人の仏歯に対する思いは尋常ではないと想像できるのである。

 キャンディ市内に到着した。レストランあり、土産物屋さんあり、たくさんの人が繁華街を往来している。にぎやかだ。人々の表情も明るい。コロンボの閑散とした寂しさがない。居心地の良い場所だ。散策できる所もある。住んでみたい。タイで暮らしていたころ、チェンマイに対して抱いた印象と同じだ。繁華街の一角に大きな湖がある。キャンディ湖だ。そして、その湖畔に仏歯寺がある。

 なかなか警戒が厳しい。2箇所でセキュリティ・チェックがはいる。身体検査ではなんと急所まで触られた。(そんなことをしてどうするというのだ。警備員の個人的趣味か。どさくさに紛れてやられたって感じだ。やつの目が妖しく光ったのを俺は見逃さない。)境内は広い。インドのバンガロールで見た寺院と雰囲気が似ている。本堂の前で2回目のチェック。今度は外国人料金500ルピーを払えと言われた。失恋男が助け舟を出してくれた。「この人はケラニア大学の先生で観光客ではない。」とか何とか言ったらしい。おかげで無料通過。しかしここでも急所チェック。(なんだこいつら、変態の集まりか。)そう思いつつも、どういう風に言葉を紡いだらいいのか、イメージがわかない。まともに触られたわけでもない。とりあえずボディ・チェックなのだから…。微妙なのだ。う~む、やつらの技ありというところか。こだわっても仕方がない。握られたわけではないし。とにかく中へ進む。

 いよいよ納骨堂ならぬ「納歯堂」へ。ここにもたくさんの人がいる。女性が圧倒的に多いようだ。それも、うら若きランカ乙女たちが座り込んで祈っている。どの人も、さびしそうな憂いを含んでいて、それはそれで気になる。お~い、みんな失恋者かい? 恋に疲れた女がオオゼイ…。失恋男も神妙な顔をして、目をつぶり、手を合わせている。(そうそう、そうやって、これまでの自分の限りなき欲望を深く懺悔しなさい、六根清浄、六根清浄。)

 新館というのが隣にあって博物館になっていた。失恋男が以前来たときはなかったという。一緒に見学した。この仏歯寺は10年前にLTTEに攻撃され、数名が死亡。建物も破壊された。その時の悲劇の写真がパネルになっている。この寺も辛い思いをしているのだ(合掌)。その他、仏歯の行脚の軌跡も展示されている。面白いのは、外国人が寄付したという外国の貨幣を国別に揃えて陳列していることだ。(まあ、他に展示するものがないという残念なことを示してもいるのだが。)また、タイと同じテラワーダ仏教ということで、タイから寄進された仏像の姿も見える。スリランカとタイ、俺の知らない所で結ばれている。深い縁があるのだ。
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土産物屋


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スリランカ通信(11)  リフレッシュ in キャンディ(1)「旅立ち」

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キャンディ市内

 その日は雨だった。
 旅立ちは雨の日が良い。そう言ったのは「二十歳の原点」の高野悦子である。なぜ雨の日なのだろう。ずうっと思ってきた。今も気になっている。浮世の憂さを流してくれるから?(憂さは晴らすものなのだが) 出発前の涙をごまかせるから? 雨具を忘れてしまうことがないから? いろんな意味をこめての「雨の日」なのかもしれない。

 人の心は不安定で、いつもぎりぎりの境界線を綱渡りしているのだと思った。一つ間違えると思ってもいない方へ引き込まれてしまう。彼の場合がそうだった。

 数日前のこと、その男から電話があった。
「傷心旅行につきあってくれないか。」

 いやな胸騒ぎがした。他人の失恋に向き合うほど、人ができてる俺ではないし、暇もない。だが、よく話を聞いてみると断るわけにはいかなかった。思いがけない、ふとした出来事から、これまで大事にしてきた恋心が一気にあらわになり、あっという間に失恋したらしい。そして、なんと、その失恋相手のアドバイスに従って、リフレッシュすることにしたというのだ。

「情けないと思わないか、お前。」
「情けないけど、みじめじゃないぞ。」
 口をとんがらして彼は答える。しかし、旅費は全部持ってくれるというではないか。ここで、友を見捨てては男の名がすたる。人間として最低だろう。付き合うことにした。相談に乗ることにした。「明日はわが身」ということもある。友の期待に応えずして、何のおのれが人生か。

 失恋者には古都がふさわしい。日本なら、京都~大原三千院、恋に疲れた女がひとり~だ。
 スリランカで失恋した男が向かう場所・・・キャンディ。

 キャンディは標高300メートルの盆地でコロンボよりも過ごしやすい気候らしい。シンハラ王朝最後の地で、300年以上のシンハラ文化が隆盛した街である。コロンボから3時間と地の利もいい。俺もまだ行ったことがないし……。失恋男に「お前にはキャンディが似合う。」と言うと、彼はそれだけで、はしゃぎまくった。悲しいほど単純な男なのだ。
 それにしても、失恋話って、本人には申し訳ないが、周りの心は癒されるんだなあ。

 コロンボから一路、キャンディ・ロードをひたすら走る。彼の運転は乱暴だった。こちらスリランカでは「俺を追い越すなよ」という意思表示として、右折するわけでもないのに右ウインカーを出すが、彼はずうっと出しっぱなしだった。無理やり前方の車を追い越したり、S字道路で前方が良く見えないのに、反対車線に出て追い越しをかけたり……。今はもう、雨が上がっているからまだいいようなものだが。一瞬、後悔した。(やはり、失恋男と旅なんぞするもんじゃない。)

 途中、レストラン「Ambepussa」で、休憩。キャンディまで後60キロという地点だ。ここで、サウジアラビア以来の知友、プラディープ君と再会。クルネーガラ行きに次いで2度目だ。オレンジジュースを頼むと新鮮な絞りたてを持ってきてくれた。おやつは彼推薦の「マサラ・ワデ」という豆で作ったお菓子。タミール人のものらしい。
「なあんだ。シンハラ人とタミール人、仲いいじゃん。」
 と言うと、憮然とした表情でプラディープ君は応える。
「シンハラ人とタミール人は昔から仲良く共存してきたんだ。今、争っているのは政府軍とLTTE。世界の人はみんな誤解してるんだ。」
 なるほど、返す言葉もない。しかし、失恋男が日本語でボソッとつぶやいた。
「確かにそうだけど、コロンボのタミール人はずいぶん差別されてるよ。」
 この国の歴史、民族移動と植民地の時代、これを正確に紐解かないとなかなか分からない問題だ。とにかく、ご馳走してもらった手前、反抗などしない。

 プラディープ君が他の客に気を取られ、テーブルを離れた後、
「男と女。やっぱり、女のほうがいい。ぼくは今度生まれ変わるとしたら、絶対、女になる。そして、ぼくのような男と出会ったら、決して振ったりしないで、優しく尽くしてあげるんだ。」
 失恋男は俺に話しかける風でもなく、ひとりごとのようにつぶやいている。どうも、重症のようだ。こんなに思いつめて、本当にリフレッシュできるんだろうか。
 まずは、煩悩を捨て去って解脱の道へ向かうこと。汚れきった心を浄化するのには仏陀に帰依するのが一番。とにかく仏歯寺へ行こう。俺は勝手に決めたのだった。
(この話はフィクションが少し入っています。あしからず。)
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マサラ・ワデ


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スリランカ通信(10) 「スリランカ人魂」

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コロンボ市内

 今年の1月、スリランカ政府とLTTEの間の休戦協定が破棄されてから、テロの頻度が激増した。一週間に一回はどこかで、バスや電車の中で爆発が起きたり、爆弾の小包が発見されたり、自爆テロが起きたりしている。子供を外国に住まわせるべきかどうか、真剣に悩んでいる親も多いという。

 一方、石油価格の高騰(*)から、バス代等生活費が値上がりしているものの、経済成長が続いている。紅茶やゴムの高収益などがこれを支えているのだろうか。観光産業の危機が叫ばれながらも、外国からの投資が続けられているし、イギリスなどからの旅行者の数も減ってはいないそうである。

 戦争はあるが経済は成長している。世界のどこに、こんな悲惨な闘争の中で、平均5%の経済成長を果たしている国があるだろうか。ショッピング・モールはとりあえず充実しており、マレーシアやインドの投資家は引き続き投資しており、株式市場は活発だ。

 スリランカの中・上流階級。確かに生活費のコスト高に不満を持ちながらも、パックツアーでバンコクやシンガポールに旅行するという。そこには高い費用に対する不安も疑念もない。週末はリゾートホテルで過ごす彼らに生活費を切り詰めている様子はない。それよりもステータスを守ることのほうが大事なようだ。

 労働者階級にとっても、物価の高騰は彼らを生活苦に追いやっているはずだ。ところが、雇用条件が劣悪な彼らは、借金をしてでも携帯電話を買ったり、派手な洋服を買ったりしようとする意欲をもっているそうである。

 自爆テロの危険、通勤時のバスや電車の中の不安、ショッピング・モールでの爆発の恐怖。にもかかわらず、スリランカ人は前に進む。迷いながらも悩みながらも、前に…。あるいは「進む」しかないのかもしれない。

 生活費があがり、不満を言いながらも何とか工夫する。それについて何か試みる。あちこちで爆発が起きても、その瞬間、ショックを受けても、その後でパーティへ向かう。これを「スリランカ人魂」と呼んでいいだろう。「とりあえず前に進む」この姿勢こそが外国人旅行者を引き付けているものの源なのかもしれない。投資家が投資の最善の場所として信じている理由なのかもしれない。

(*)最近、スリランカ政府は石油消費を削減するための方策として、学校をこれまでの週5日制から4日制の登校日にしようという「病的な」提案を出して、人々の苦笑を買った。確かにコロンボ市内の登下校時の渋滞振りは目に余るものがあるが、なんとも稚拙な策であることに気がつかない政府に大きな問題があること、そうした政府を抱えていることもスリランカ人の悲劇の一つであろう。

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スリランカ通信(9) ウェサック祭(2)

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デヒワラ動物園


 デヒワラ動物園。案内書では入園料500ルピーとあったのに、なんと1000ルピーも取られる。発展途上の国によくある外国人料金だ。スリランカ人はただ同然。中にはたくさんの人、ひと、ヒト。どうやら外国人は我々二人だけ。ちょっと気後れする。だが、広い敷地には何種類もの動物たちがのびのび暮らしている。狭い檻の中に閉じ込められているライオンやふくろう(肉食だったんだね)もいるが。人気を博していたのは象やオランウータン。アジアで最大規模の動物園とのことだが、確かに一回りすると2時間はたっぷりかかった。汗びっしょり。途中に「Dad’s Bar」というのを見つけた。なるほど、然り。お父さんにとっては動物を見て回るより、バーで一杯。子供はお母さんに任せて……というところか。しかし、動物園の中にとは、なかなか気が利いているではないか。だが、本日は禁酒の日。残念。
 
 この散策で汗だく、ぐったりの私に比べて、綾さんは涼しい顔。年齢差が出たか。たった2時間だが、20年分の差が出たというわけだ。

 マウント・ラヴィニアから海を眺める。このホテルには伝説がある。イギリス植民地時代の総督エドワード・バーンズなる人物がラヴィニアという娘に恋し、彼女のために建てた別荘が元々の由縁なのである。そこから、このホテルを「マウント・ラヴィニア」と呼ぶようになったらしい。
 事実はともかく、このホテルのプールサイドから海を眺めていると、インド洋の彼方水平線の向こうに、美しき乙女ラヴィニアが微笑んでいるような気がするから不思議である。
「水平線」、正確に言うと水平線ではなく「水曲線」だ。水平線が弧を描いて見える。左右180度以上の視界に海が横たわっているのだ。「地球はまるかった」と実感できる瞬間だ。
彼女はあまり話さず、じーっと海をみつめていた。私も寄せては返す海の息づかいを感じていた。西日が弱くなってきたころ動物園の疲れも回復してきた。最終目的地へ向かう。

 車で5分くらいか。その場所には程なく着いた。しかし、メインのゴール・ロードから海側に向かった小路に入ると、急に道も狭くなり、ノロノロ運転になった。番地の表示もない。不安が募る。それでも、地図を頼りに通り過ぎた側道を数えながら確実に到着した。小路の真ん中に特別に作られた飯場のような小屋がある。表には仏像を描いた飾りがつけられている。小屋からデムタ氏が出てきた。本日、招待してくれたホストである。

 小屋の中ではお坊さんが読経をあげている。私たちはひとまず彼の兄弟の家に案内された。紅茶と菓子をいただく。デムタ氏はスリランカの中でも有名な日本語学校のマネージャーをしている。2002年まで彼はサウジで働いていたということもあり、私は親近感を持っていた。一段落した所で小屋に戻り、セレモニーに参加した。初めにオイルランプの点灯式。私たちは主賓扱いで、真っ先に灯をつけた。それから食事。食べても食べても「わんこそば」のように継ぎ足してくれる。外にはこれらの食事の配給を受けようと老若男女の長蛇の列が出来ている。毎年恒例の施しなのである。

 大変おいしくいただいた。そして、初めての訪問なのにずいぶん大切にされてもてなされた。ランカ人にもホスピタリティーはあるのだ。心地よい一日であった。

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ホストのデタム氏(右側)と

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スリランカ通信(8) ウェサック祭(1)

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施しを受ける二人


 5月のポヤ・デー(満月の日)は、こちらスリランカではウェサック祭を行う。
ウェサックとはシンハラ語で5月という意味だ。大切な行事の一つになっている。
厳粛な宗教的儀式である。

 この日は仏陀の誕生日であり、悟りを開いた日であり、入滅した日であるといわれている。
 生と開眼と死が同じ日なのだ。
 派手なことはしない。しかし、そこはスリランカ。道端で寸劇やらコーラスやらを披露しているところもある。夜8時ごろから大勢の人が街頭に繰り出してくる。路上で音楽に合わせて踊っている若者もいる。多くの人の目的は食事だ。食事が無料で食べられる。そのための特設会場があちこち、あちこち、本当にあちらにもこちらにも設けられ、長蛇の行列ができるのだ。

 偶然にも、この日、3月の結婚式に同行した綾さんが来スした。またとない機会なので、彼女をコロンボ見物に案内することにした。
 午後1時、スタートは腹ごしらえ。辛いものが食べたいという彼女のリクエストにお応えしておしゃれなインド料理の店「ザ・マンゴー・ツリー」へ。昼食時をはずして入ったつもりだったが店内は盛況。わずかにあいていた1席を確保した。
 この店はコルピティアという地域にある北インド料理の店だ。残念ながらビールはいただけなかった。ポヤ・デーだから。仏教の日にはアルコールは禁止なのだ。仏教が酒に厳しかったことを改めて痛感する。「醒めて極楽へ」ということか。

 激辛カレーとナンを堪能したところで、コロンボ国立博物館へ向かう。スリランカに来て1年と1か月。コロンボ市内を巡ったこともなかった。今日はいいチャンスだ。綾さんが来なかったらこんな事もなかっただろう。彼女に感謝。
 古ぼけた白い建物が見えてきた。この博物館はイギリス植民地時代に造られたものらしい。ホワイトハウスのような建物がその時代を象徴している。中にはスリランカの独特の悪魔祓いの仮面のコレクションがあるという。楽しみである。

 ところがどっこい。クローズ。ポヤ・デーはお休み…とか。まったくこの国はサービス精神に欠ける国だ。予定が狂ってしまった。
仕方ない、次の目的地へ向かおう。
行き先は動物園。アジア1規模が大きい…らしい。
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ウェサック祭特設会場に飾られたシンボル

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スリランカ通信(7)クルネーガラ道中記<1>サプライジング・ジャーニー

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偶然再会したプラディープ君

 クルネーガラという街に1泊2日の旅をすることになった。「じゅんこファミリーズ・コンサート」に招待されたのである。このコンサートの主催者じゅんこ・Aさんはスリランカ20年の滞在経験を持つ。当初は青年海外協力隊の幼稚園の先生として、このクルネーガラに派遣された。それ以来の縁で、今は「のぞみ日本語センター」を開設して子どもから大人まで幅広く日本語を教えている。数年に一度、市民ホールを借り切って学生による歌や踊り演劇などを披露している。彼女自身もギターの弾き語りをするなど、いろいろな才能の持ち主である。

 同行者はケラニア大学の水野氏(日本シルバーボランティア)、サバラガムワ大学の岸隊員(青年海外協力隊)、日本語教育協会の根岸隊員(青年海外協力隊)そして、なぜか教師会の元会長のローヒタ君と私の5人である。実はあらかじめ日本人で何か劇でもやって欲しいというリクエストがあったのだが、前日まで何の打ち合わせもしていなかった。そして、私は前日に、水野氏に至ってはなんと当日にセリフを渡されて、これを覚えて演じるようにと協力隊員から「命ぜ」られたのであった。それは何とシンハラ語による「金のガチョウ」の一幕であった。日本語学校のコンサートだから日本語の劇だろうと高をくくっていたのだが、「観客は学生の保護者、親戚が多いから日本語は分からない。日本人がシンハラ語で演じれば受ける」ということで説得させられてしまった。根岸隊員が脚本を書き、岸隊員がシンハラ語に訳したものを中高年の水野氏と私は直前で受け取り、慌てふためいたのだった。

 二人の隊員はまだ若く、記憶力も良い。しかも彼女たちはシンハラ語の日常会話に困らない人たちである。頭も良くかわいくて、オヤジギャグが得意な二人。何の文句もないのだが、一つだけ欠点があったようである。年寄りに冷たいことだ。少しは「優しさ」とか「いたわり」とかあってよさそうなものであるが、彼女たちときたらその微塵も見せてくれない。同年齢の友達のように気さくに付き合ってくれているのかもと考えることもできる。が、そういえば、気を使ってくれているなあ、という場面もあった。車の中ではローヒタを自分たちの席に呼んで、狭い思いをしながらも、水野氏と私にはゆったりした席を確保してくれるという気遣いもあった。しかし、そうした配慮の心に対するありがたみを帳消しにしてしまうほどに、「笑いが取れる」となると容赦がないのだった。水野氏と私は目を点にしながら、行くバスの中でひたすらセリフの暗記に努めた。道中の景色を眺めて旅行気分に浸ることもなく、恥をかくまいと必死で、台本に取り組んだのである。

 昼時になってみんなお腹がすいてきたので、近場のレストランで食事をしようということになった。目標も定まらず,目に付いたレストランの前で車を止め、ザワザワと中に入る。広い店内には料理のメニューが写真入で飾られてある。あれにしようか、これがいいと思い思いにメニューを見ていると、私に話しかけてきたスリランカ人がいた。店の人だった。だが、見た顔だ。どこかであったことがある。彼も私を知っていると言う。「ああっ、サウジアラビアだ。サウジのイイド・コンパウンドだ」2年前の6月まで私はサウジアラビアにいた。その時は外国人専用居住区に住んでいた。その中にはレストラン、美容院、ジム、ボーリング場、プールなどの施設がある。そこのミニマートで働いていたのが彼だった。いつも愛想のいい笑顔で挨拶をくれる感じのいい青年だった。サウジでの知人(それもほぼ毎日のように会っていた)にスリランカで、しかも、こんな旅行中にふらりと入った店で会うとは、偶然と言うにはあまりにも偶然過ぎる。何か、目に見えない糸に操られているのではないか、そんな気さえしてくる。出会いの偶然性を想像力によっていかに組織化するかというのも人生の楽しみの一つである。

実はスリランカは世界でも上位に入るであろう海外出稼ぎ国だ。庶民に英語力があること、貧困層が拡大していること、テロが日常化し心安らかにして住めない国になっていることなど、さまざまな原因がある。海外流出者が多いのである。貧しい人は貧しいためにお金を求めて(国内では十分に稼げる仕事が少ない)、富める人は富めるがゆえに自由と安穏を求めて外国へ行くのだ。一方、サウジアラビアは外国人労働者を多数受け入れている国である。技術者が少ないこと、労働力が少ないことなどがその原因だ。彼らは、肉体労働はおろか知的労働でさえ「労働する」ということで軽視する風潮がある。なにしろ、オイルマネーで生活しており、働かなくても食っていけるのであるから当然かもしれない。私がかつて働いていたK・S大学ではまず女性の場合は職員も教員もワーカーもいなかった。そして、サウジ人男性が、事務職と役職のついた教員になっている。役職のない教員はほとんどエジプト人、シリア人である。掃除のおじさんはバングラディッシュやパキスタン人、食堂の店員も周辺の国から出稼ぎに来ていた人たちだった。

 発展途上国とはいってもサウジとスリランカでは天と地ほどの差があるのだが、両国に共通することが一つある。大学生の学費が無料であることだ。ただ、無料であるだけでなく、なんと、学生手当てまでもらえるのである。サウジは金持ちの国だから、まあ、理解できるが、スリランカの場合は相当、国民の負担になっているのではなかろうか。考えてみるとスリランカという国にも不思議なことが多々ある。

 サウジアラビアに住んでみて、本からは得られない多くのことを学ぶことができた。コンパウンドと呼ばれる外国人住宅地は塀で外から遮断されており、サウジ社会と距離をとっている。この中では、サウジの風習は一切行われない。お祈りも断食もない。女性も思い思いの服装を楽しんでいる。さすがに豚肉は食べられないが、密かに持ち込んだ酒をいただいたり、自分でも造ったりできた(最もこうした生活が世界の潮流なのであるが)。しかしながら、この中もある意味でサウジ社会の縮図なのであった。コンパウンドのオーナーはサウジ人、マネージャーはアメリカ人(後にエジプト人に変わった)、経理担当はインド人、レストランや美容院で働くのはフィリピン人、ワーカーはバングラディッシュ人、運転手はパキスタン人、そして、ショップの店員はスリランカ人だった。国籍で仕事が決められているようなところがあった。

 そして、私がこのコンパウンドで親しくしていたのがミニマートの店員をしていたスリランカ人のプラディープ君だったのである。彼はサウジでお金をためてスリランカに戻り、コロンボからクルネーガラの途中にあるレストラン兼アグリショップのマネージャーに納まっていたのであった。二人で写真を撮った。コロンボに来たら是非連絡をくれるようにと名刺を渡して、この店を後にした。一時間でクルネーガラに到着するはずだ。

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スリランカ通信(6)結婚<4>スリランカ人の結婚観

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シーギリアレディ


 スリランカ人の結婚観なるものを整理しておこう。もともと庶民の間では恋愛結婚が多く貴族や上層階級では見合結婚が多かったようである。やがて、女性の純潔性が重視されてきて、庶民の恋愛婚や女性の再婚が否定的にみられるようになったようである。では、見合結婚が理想かといえば必ずしもそうではないらしい。結婚に至るまでのしたたかな駆け引きがあったりするし、高学歴の女性などはつりあいの取れた相手がいないために未婚のまま高齢になっているケースもあるらしい。見合結婚が望ましいとされながら、恋愛婚も多くなっている。現在では都市部の富裕層や高学歴の人々の間では恋愛婚が増加している。

 それでは、何ゆえにこれまで恋愛婚が忌避されてきたのか。その理由の一つに彼ら独特の親族観があるようである。親族は「結婚できないカテゴリーの親族」(血族)と「結婚できるカテゴリーの親族」(姻族)とに分けられる。(血族)とは父、父の兄弟、母、母の姉妹、自分の兄弟姉妹、平行いとこである。父の兄弟は「父」と同じ、母の姉妹は「母」と同じにみなされ、彼らの子供は「兄弟姉妹」と同じなので結婚できない。一方(姻族)とは父の姉妹、母の兄弟、交叉いとこである。父の姉妹の子供、母の兄弟の子供とは結婚できる(むしろ結婚が奨励されているようである)。また、結婚した相手の兄弟は自分の兄弟と同じであり、その配偶者の兄弟姉妹と見る。

 恋愛婚となると、上記のような「正しくない関係」にある人たちと姻戚関係を持ってしまうことがあるのである。特に、配偶者の兄弟姉妹まで実の兄弟姉妹と同じと見る考え方は恋愛感情を持ってもいい相手が限定される。それが、狭い村社会の中ではなおさらのことである。結婚可能な関係なのかどうか不明確になることもあろう。こうしたことが恋愛婚を避ける結果になったようである。

 今現在では、恋愛結婚が多いようであるが、コンピュータ婚や新聞に募集中と掲載することもあるようである。一度、相手が決まっても結婚に至るまでが大変とも聞いている。まずは、占いによってその相手がふさわしいかどうか決めるのだそうである。占いに「吉」と出なければ破談になるケースもある。結婚式の日取りも占いで決める。平日の日中であろうがなんであろうがお構いなしである。結婚後は夫方居住のディーガ婚か妻方居住のビンナ婚のどちらかの形式を取る。通常、ビンナ婚は男の権威を失墜させるという考えがあるが、実態は異なっている。結婚後も嫁は実家の母の援助を頼る。家事の指導から経済的な援助まで受ける。そうして、一人前の主婦として成長していくのである。ビンナ婚ではそうした、実家の母からの住居の支援を受けているにすぎないと考えるので男の権威が傷つくことはない。ヴィラージさんもビンナ婚である。弟が親の家を継ぐ。彼は親の会社をもらうことになっているそうなのである。彼は家がないので妻方居住を取ったのだろう。

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スリランカ通信(5)結婚<3>祝い酒でも隠れて飲む

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ケラニア寺院

 8日、新郎側の披露宴にも参加した。その日の朝、ケータイに電話が入った。新婚旅行中のラージカさんからである。いつもより、明るく元気な声だった(ような気がした)。今日の夕方、車を迎えによこすからという案内だった。(シーツは…)と思わず声が出かかったが、かろうじておさえた。彼女は私がこの話を知っていることを聞いていないのである。5時ごろ、ラージカさん両親、兄弟親戚を含めた総勢50人とともに車を連ねて会場のホテルへ向かう。キャンディ・ロードを2時間行ったところにそのホテルがある。途中1時間走った所で新郎新婦が記念撮影しているホテルに行き、合流。私とケラニア大学同僚の水野氏は新郎新婦の車の後部座席に座り、同行した。後、1時間で新郎側がセッティングした披露宴会場に着くはずだ。

 新郎のラージカさんとは昨年、4月に赴任して大学で知り合った。彼女は私のビザの延長のために、高等教育省へ行ったりイミグレーションへ連れて行ってくれたり、いろいろ世話をしてくれた。そんな中で彼女は自分が日本語を勉強するようになった理由、特に彼女のお姉さんのおかげで大学の講師にまでなれたのだということを熱っぽく話していた。彼女は敬虔な仏教徒で日曜にはお寺に行って講話を聴いたり(時には話したり)、肉類は一切口にしないベジタリアンでもあった。朝は3時に起きて日本語の勉強に精を出す朝方の人間でもある。そのころから、不安定な非常勤講師を続けるよりも、日本へ行って研究者の道を歩みたいと思い始めていたのである。

 昨日、日本に帰国し、今回は参加できなかった佐々木綾との縁も不思議なつながりだ。初めての出会いは彼女がチェンマイ大学の講師をしていたころだから、もう10年は過ぎている。当時、国際交流基金のバンコク日本語センターの主任講師をしていた三原龍志氏の紹介だった。三原氏とは当時、一緒に読書会をしたり、飲み会をしたり、よく学びよく遊んだ仲間である。最も信頼の置ける人物の一人だ。佐々木綾も彼を信頼しており、いまだに親交がある。佐々木綾とは2002年に私がサウジアラビアへ行ってから4年間、ぱったり連絡が途絶えていた。2006年にサウジからチェンマイに戻った私は日本留学フェアの会場でブースを担当していた彼女に偶然出会ったのであった。その時はスリランカへ行くことなど当の自分も知らず、当然彼女がラージカさんを知っていることなど知る由もなかったのだ。

 会場に着いた。7時近くになっていた。このホテルはコロンボからキャンディに向かう途中にあるカラゲディへーナという町にある。新郎ヴィラージさんの実家の近くだ。ヴィラージさんは約2時間もかけてラージカさんのお姉さんの日本語学校に通っていたわけである。しかしまあ、そのことで、美しい嫁さんを娶ることができたのだから、苦労のしがいもあった訳である。人は何事においても苦労すべきだということがよくわかる。苦労があるからまた喜びも増すのである。安易に手に入るような「幸せ」では人間は成長しないなどと、つい若者への説教じみた口調になってしまうのであるが…。

 さて、このホテルには総勢200人の招待客が集まったのであるが、我々新婦側50名が到着したときには新郎側の客はおらず、花嫁と花婿は新郎の両親と二人の子供に向かえられて入場した。その時はなんと私は新婦ご両親の後を歩いたのである。VIP待遇だった。我々が席に着いた後から、だらだらと少しずつ客が集まってきて、新郎新婦に挨拶をして席に着く。しかし、8時を過ぎても会食に入る気配がない。会場では下手な生演奏と歌が行われているが、音がうるさくて周囲の人との話ができない。大声で話し続けたものだから、「バダギニー(腹減ったよう)」と言いたくなる。そんな思いが通じたのか、ラージカさんのお兄さんに「2階へ行こう」と誘われる。

 その2階の部屋では男たちが集まってビールやらウィスキーやら飲んでいた。別室でこそこそとつまみを食べながら飲んでいるのである。ここ、スリランカでは「酒を飲むことは良くないこと」とイメージされている。街の酒屋では客は中に入れず、窓口を通して酒を購入する。そして、その窓には鉄格子がはめてある。スーパーにも酒屋があるがたいていは店の奥のほうのひっそりした目立たない所にある。スリランカの男たちは大の酒好きなのであろう。そして、飲むと際限なく飲み、酔い、もっと酒をくれとなって、暴徒化し酒屋を襲うのであろう(実際、そのようなことがあったらしい)。そのような経験から、酒屋の窓に鉄格子がはめられたり、ひっそりした所に酒が置かれたりするようになったのだと思う。おめでたい結婚披露宴のときでも同じこと。酒は隠れて飲むものになっているようである。なにはともあれ、おかげで、バダギニーから解放され、はじめはビール、次にウィスキーをいただいて満足。隠れて飲もうが、おおっぴらに飲もうが、飲めれば満足。花婿の弟(日本に留学中)と花嫁の兄(元留学生)と日本語で歓談できたこともうれしかった。結局、食事を終えて家に着いたときは夜中の12時を過ぎていた。
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スリランカのケーマ(ごはん)


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スリランカ通信(4) 結婚<2>     (スピーチ)「日本語が取り持つ縁」

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幸せな二人


ラージカさん、ヴィラージさん、ご結婚、おめでとうございます。
私はケラニア大学の同僚としてラージカさんと一緒に仕事をしてきました。
ラージカさんはいつも静かでおとなしい人です人ですが、芯がしっかりしています。
日本の大和撫子のような人です。
彼女と話していますと、彼女のまじめさ、家族への思いやりや感謝の気持ちがあることをいつも感じます。
このような素晴らしい女性と結婚できるヴィラージさんは大変幸せ者です。
ヴィラージさんもまじめでおとなしい人です。
あまりしゃべりませんが、頼りがいのある人です。
ですから、幸せになって当然でしょう。
似た者夫婦ですね。
名前もとっても似ていますね。
「ヴィラージ + ラージカ = ヴィラージカ」
結婚した二人は「ヴィラージカ」という一つの家族になりました。
とても縁の深い名前だったのですね。

この結婚でもう一つ、うれしいことがあります。
新郎のヴィラージさんは日本語の勉強しにお姉さんの学校に来ました。
そこで新婦のラージカさんと出会ったのです。
つまり、二人が結婚することになったのは日本語があったからです。
「縁結びの日本語」という新しい役割を発見しました。
私は日本語教師としてこれほどうれしいことはありません。
会場のみなさん、皆さんの中で、これから結婚したい人はいませんか。
その人は是非日本語を勉強して下さい。
きっと、幸せな結婚ができますよ。

お二人にとって、これからがスタートですね。
日本での生活。
二人での生活。
何もかもが、新しいことばかり。
だからこそ、二人の力で、自由に二人の世界が描けます。
苦労はあったほうがいい。
幸せが倍増します。
お幸せに。

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スリランカ通信(3)  結婚 <1>   21世紀に生きる旧習

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結婚式の様子

 3月5日と8日、結婚披露宴に招待された。5日は新婦の側、8日は新郎の側である。5日はまず朝早くバンダーラナーヤカ国際空港へ行った。この空港は日本の援助で建設されたもので、こぢんまりとしたきれいな空港である。ここである日本人を迎えた。静岡日本語センターの校長をしている佐々木綾氏である。彼女は校長という肩書きだが、私よりずいぶんと若い。彼女もまた結婚式に招待された一人であり、日本からわざわざ駆けつけてくれたのだ。実は彼女はタイ時代からの私の友人で10年以上の付き合いになる。だが、2002年に彼女が日本に戻り、私がサウジアラビアに赴任し、それ以来連絡が途絶えていた。それが一昨年、偶然の再会を果たし、旧交を温めていたところである。彼女もまた、今回の主役である新婦のラージカさんを以前から知っていたのである。ここにも何か因縁めいたものを感じるのであった。

 空港から2時間、到着したときは午前11時を回っていた。この日の宴はラージカさんの姉のルチラーさんの自宅で行われた。ルチラーさんも日本語が達者で妹思いの好人物である。ルチラーさんは貧しい家に育ち、里親制度で、日本人の援助を得て勉強した人である。このことから、いつか日本に恩返しをしたいと思い、日本語の勉強を始めたそうである。今は日本語学校と幼稚園を経営している。この姉が勉強する様子を見て、ラージカさんも自然に日本語を勉強し始めたらしい。ラージカさんは結婚後、ご主人とともに日本へ行って大学院で勉強することになっている。この留学も今回の結婚式も姉ルチラーさんのおかげで実現したとのことだ。

 会場は祝福客であふれていた。家の中だけでは足りず、庭にもテーブルを出してにぎわっていた。ケラニア大学の同僚たちも数人見える。私と佐々木綾は彼らの席に座り込んだ。スリランカの結婚パーティーは自由である。今回は開宴時間が9時から3時までだが、その間なら、いつ行ってもいいし、いつ引き上げてもいい。テーブルの席も自由である。お互い、知ったもの同士が集まり、談笑する。新郎新婦は初め客を迎えるために設けた席に座り、来た客に挨拶する。客席が埋まったところで、二人でテーブルを訪れ、二言三言話す。そして写真を撮る。おめでとう、ありがとう、カシャ、カシャとシャッターの音がする。

 12時になって、2階に用意された昼食のビュッフェ(ほとんどがスリランカのカレーである)を思い思いに取り分け、いただく。この時には一気に人があふれ、もとの席に戻ってみると他の客が座っていた。ルチラー姉の導きで佐々木綾、ケラニア大学の同僚と私は別席に案内される。そこで、デザートの果物やケーキを食べながら、また、談笑。外では軽快な音楽が鳴り始めた。そのリズムに合わせて、みんな、独特のスタイルで踊りまくっている。スリランカ人は踊りが好きだ。バス旅行でも音楽なしで、座席に立ってみんなで勝手に踊りまくる。内戦が続き、沈んだ顔をしている人が多いが、本当は陽気な国民性なのだ。音が大きくて話が通らない。うるさいぞ〜。やっと、静まったと思ったら、宴の終わりのときだった。

 佐々木綾と私は主賓として迎えられており、スピーチをした。その後、スリランカ人の代表が挨拶してから、新郎新婦は仲を取り持つ人の掛け声の合図を聞いて、お互いの両親の足元にひざまずき、挨拶をする。みんなの見送りを背に、飾りのついた車に乗り込んで新婚旅行に出かけていった。行く先はキャンデイである。

 この宴の談笑中に、ルチラー姉からショッキングな話を聞いた。今朝、新郎の母が新しいシーツ持ってきて、新郎新婦に渡したというのである。彼らはこれを携えて旅行に行ったのである。このシーツが何を意味しているかはすでに察している方もおられよう。そう、初夜(なんという懐かしい響きだろう)の床に敷くためのものである。そして、旅行後、このシーツを持って帰り、処女の証をするのだそうである。(しかし、うまくいかなかったり、跡が残らなかったりしたら?)その時は、嫁姑の関係が悪くなり、形式的には結婚しても、やがて離婚ということもあるとか。なかには、動物の血などに変えたりすることもあるらしく、本当のものであることを調べる専門家もいるのだそうである。もちろん、戻ってきたシーツが最初に渡したものと同じかどうかチェックできるようにしてあるとのこと。最近はこのようなことをしない人もあるらしいが、ラージカさんはこの前、日本に行ってきたばかりで、日本で遊んでいたかもと、少々疑惑を持たれたようで、このようなことになったらしい。

今、この、21世紀の時代に、19世紀的な出来事が行われているということを、どう、とらえるか。頭が混乱する。やはり、世界というものは見てみなければ分からない。ただ見ただけでも分からない。さて、このシーツ。結果はいかに?!?
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踊る若者


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青沼国夫のスリランカ通信(2)-パート2

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シーギリヤロック

 異郷に暮らし始めれば、どんなところでも最初は違和感がつきまとう。これまで培ってきた(引きずってきた)価値観で物事を見るから、新鮮だがギャップも大きい。事の仔細が見えず茫漠たる気分になることもある。こうした印象もたぶん大事だと思うので書きとめておくことが多い。数か月すると「慣れ」が生じて、かつて見えていたものが見えなくなるからだ。
 昨年の4月スリランカに到着してからがそうだった。スリランカ女性の顔がみんな同じに見えるのだ。丸くて色黒の小さい顔、縮れ毛の髪をみんな同じように編んで、同じ服装で歩いているのだ。彼女たちを見かけると、かえるの卵のような丸っこいシンハラ文字を思い出してはにんまりしていた。10か月たった今、その違いがよくわかる。結構みんな個性的になっている。

 ただ、タイに居たときにはこれほどの違和感を持たなかった。何の予備知識もなく来てしまったタイであるが、思いのほか早く溶け込んだ気がする。おそらくは中華系タイ人の存在が日本人にとっては違和感を和らげているのではないかと推測する。あのジャナカ君がタイを好きでない理由は差別意識を感じたからではないかと思う。タイには黒人が少ない。日常ほとんど見かけない。色黒のタイ人はよくいる。しかし、スリランカほどではない。さらに、タイ人は色白の肌を好む。そして、ものごとをはっきり言う人たちだ。そのようなことがジャナカ君には居辛い場所になっていたのではないか。

 10年ほど前にタイからスリランカへ1週間の家族旅行をした。こだわりの旅行ではない。ただ、安いツアーがあったのだ。もう今では記憶が薄れてしまっているが、仏歯寺やシーギリア・レディ、ユネスコが発掘中という遺跡などを巡ったことを覚えている。それから、ちょっと変わっているがセンスのいいホテル(今思うと、あれはジェフリー・バワの建築だったのだろうと思う。よく見なかったことが悔やまれるが)に泊まった記憶もある。コロンボ市内にも1泊した。通りが静かで寂れていて暗い感じだった。この小旅行でジャナカ君の面影を探したりもした。偶然でも、どこかで、出会わないだろうかと…。だが、あわただしいグループツアーではただ、風景が通り過ぎていくだけなのだ。

 スリランカに本気で興味を持ったのは2001年に国際交流基金の専門家を志したときだ。海外派遣の場合、派遣先を希望することができる(但し、希望通りになるわけではない)。当時、タイに慣れ親しんでいた私は当然タイを第1希望にした。「外の国も」と探していたときに、ある論文に出会った。スリランカに93年から96年まで、国際交流基金の派遣で来ていた日本語教育専門家宮岸氏のものである。論文の内容は後述するが、スリランカにおける日本語教育を是非、見てみたいと思ったのである。あれから6年後、それが実現し、期せずして宮岸氏との出会いまで可能となったのである。とにもかくにも、2007年4月14日、スリランカに上陸した。

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青沼国夫のスリランカ通信(1) ―はじめに(パート1)―

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この通信を始めるにあたって、スリランカ上陸までの概略を個人的な因縁めいたものも含めて綴っておきたい。というのも、そうすることで私とスリランカのつながりやスリランカに対する思いというものが少しは浮き彫りにできるかもしれないと思うからである。「思い」と言うと何か特別の感情をスリランカに対して以前から持っていたように誤解されるかもしれない。そうではない。ただ、スリランカという国に興味を持った時期があった。ある一人のスリランカ人との出会いからである。

「セイロン」「紅茶」「宝石」…。20年前に日本を離れることになるまで、私のスリランカに関する知識というものは、ありふれた常識範囲のものであった。20年前…。話はその頃にさかのぼる。当時、私は駈け出しの日本語教師として授業を持っていた。そのクラスの中に、ジャナカというスリランカ人がいたのである。中国人、韓国人はもちろんのこと、インドネシア人、フィリピン人、バングラディッシュ人のほか、ガーナ人、イラン人、アメリカ人、イギリス人もいて、バラエティに富んだクラスだった。学生のほとんどはアルバイトをしていて、朝はいつも眠そうな顔をしているのだった。そんな中でいつも明るく、元気に答えてくれるのがスリランカ出身のジャナカ君だったのである。

彼は決して育ちのよさそうな感じはしないのだが、「先生、ぼくらは日本では生活が大変だけど、国へ帰ればいい家に住んでいるんですよ」と話していた。彼がよく行くらしい六本木の「ホット・コロッケ」というレゲー喫茶に時々連れて行ってもらった。その頃、ボブ・マリーやジミー・クリフを聞いていた私は、レゲー音楽が好きな彼と話が合ったのである。そんな彼が一度だけ暗い顔をして教室に来たことがあった。バイト先の喫茶店で他の日本人が口を聞いてくれないというのである。イジメにあったのだ。「日本人はどうしてそんな急に態度が変わるんですか」と聞かれて返答に詰まった。おそらく、集団の中での人間関係の複雑さを説明したような気もするが定かではない。

彼の卒業を見る前に私はその日本語学校を離職した。タイへ日本語を教えに行くためである。ホット・コロッケで彼に「送別会」をしてもらった。その時、「先生、どうしてタイへ行くんですか。ぼくは、タイはあまり好きではありません」と、彼は言った。私もタイである必然性は何もなかった。ただ、海外で教えてみたかった。このまま日本にいても自分が押しつぶされてしまうような、わけの分からない圧迫感を感じていた。そんな矢先、タイ行きが決まったのである。「別にスリランカでもいいんだけどね。タイに仕事があったから…。でもスリランカでも教えてみたいね」そう言って別れたのである。タイに入った後、一度、彼から手紙が来た。それきりである。彼は妖怪人間「ベム」に似ていた。忘れられない顔だ。しばらくして、「タイは好きでは…」と言う彼のことばが分かった。


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